福岡市在住の写真家、我が友、岡友幸さんが新しい写真集「Asia in my eyes」Vol.2 を出したので紹介します。詳しくは、このブログから私のウエッブサイト(右上のURL)へ行き、newsをご覧下さい。
ゆっくりとカンボジアを旅する岡さんの目が、静かで力強い写真を生み出しています。
2006年08月09日
灼熱の高千穂 おいしい土呂久・水俣展終了
照りつける太陽の下に出ると、薄くなった髪をくぐり抜けた熱線が、頭皮をジリジリと焦がす高千穂町の夏。ご案内していました「おいしい土呂久・水俣展」が、8月5日と6日に開催され、無事に終了しました。
新聞に折り込みチラシを入れたり、防災無線で案内してもらったり、新聞とラジオでも事前告知をしてもらった。もちろん手配りでチラシも配った。その割には、高千穂町民の入場者が少なかった。これが、高千穂町民の土呂久公害や水俣病に対する認識の現状なのだろう。
写真は、地元実行委員長の藤木哲朗さん(日向時間舎)の開会挨拶。

水俣から語り部として高千穂まで来てくれていた杉本栄子さんが「天気がのさり、数は運だから、のさりが良かったなら、後は楽しまんば」と、言う。いつも前向きに解釈し、周りを励ます。
この日は、杉本さんの家族で作ったイリコを出汁に作ったソーメンとちりめんじゃこを入れて焚きあげたじゃこ飯のおにぎり、湯がきタコの刺身が水俣からの振る舞い。土呂久からは、佐藤マリ子さんを中心にして、土呂久婦人会の手伝いがあり、だご汁(うどん)、ちらし寿司が、土呂久の振る舞い。海の幸と山の幸の競演で、充実した振る舞いコーナーとなった。

今回の「おいしい土呂久・水俣展」で最も感激したのは、土呂久公民館と土呂久婦人会の皆さんが、裏方として協力してくれたことだ。これまで、土呂久公害の催し物では、被害者の会と守る会だけで行うことがほとんどだったが、今回は違った。婦人会会長の佐藤ひとみさんが積極的に声をかけてくれて、振る舞いの準備をしてくれただけでなく、展示を熱心に読んでくれた。その上、翌日は、娘さんを会場に連れてきてくれて、私に「子どもにも分かるように、土呂久公害について話してやってほしい」と、頼んでくれた。積極的な関心を持ってくれているのをひしひしと感じた。
また、土呂久公民館の館長である佐藤盛志さんが、足を怪我して自分で車を運転できないのに、奥さんに乗せてもらって2日間とも会場に来てくれた。何か目玉商品がないとさみしかろうと、高千穂牛の販売も企画してくれて、何とか盛り上げてやろうと思ってくれている気持ちが伝わった。
写真は、振る舞いコーナーで、マリ子さんの末娘、萌さんとふざけている婦人会会長佐藤ひとみさん。後で笑っているのが、今回、土呂久の要として準備した佐藤マリ子さん。

土呂久からの語り部は、佐藤ハツネさん。以前から、原稿を準備して当日に備えた。戦後、再び亜砒焼きが始まろうとする時、土呂久婦人会で当時の村長に「鉱山を始めさせないでほしい」と訴えたが、「多額の鉱産税が村には入る。土呂久のような小さな集落の一つや二つ潰れても仕方がない」と追い返された話は、僻地差別の典型だ。土呂久鉱害もこの思想の上に引き起こされた事件である。写真は、鉱山があったころの体験を話す佐藤ハツネさん。

私も、初めて土呂久を訪ねた1973年7月から5年間くらいの間に撮らせてもらった写真を90枚ほど、テーブルの上に並べさせてもらった。土呂久の人びとに見てもらうための写真展のつもりだった。「昔の写真があるげなね」と、土呂久の住民がわざわざ会場に来てくれた。佐藤浪子さんは、夫の一一さんが現在寝たきりなのに、「夫の元気な時の写真があると聞いたから」と、看病を誰かに頼んで来てくれた。ありがたい。
写真は、土呂久の写真に見入る佐藤浪子さんとハツネさんの長男、佐藤洋さん。

暑い暑い暑い夏の盛りに、遠路来ていただいた水俣の語り部の皆さんはもちろんのこと、ここにお名前は上げませんでしたが、もっともっと多くの方々からご協力をいただきました。ありがとうございました。東京や岡山や福岡など、遠方から来ていただいた方もありました。ありがとうございました。これで今年の夏の私のメインイベントは、終わりました。残すは、仕事だけ。
新聞に折り込みチラシを入れたり、防災無線で案内してもらったり、新聞とラジオでも事前告知をしてもらった。もちろん手配りでチラシも配った。その割には、高千穂町民の入場者が少なかった。これが、高千穂町民の土呂久公害や水俣病に対する認識の現状なのだろう。
写真は、地元実行委員長の藤木哲朗さん(日向時間舎)の開会挨拶。

水俣から語り部として高千穂まで来てくれていた杉本栄子さんが「天気がのさり、数は運だから、のさりが良かったなら、後は楽しまんば」と、言う。いつも前向きに解釈し、周りを励ます。
この日は、杉本さんの家族で作ったイリコを出汁に作ったソーメンとちりめんじゃこを入れて焚きあげたじゃこ飯のおにぎり、湯がきタコの刺身が水俣からの振る舞い。土呂久からは、佐藤マリ子さんを中心にして、土呂久婦人会の手伝いがあり、だご汁(うどん)、ちらし寿司が、土呂久の振る舞い。海の幸と山の幸の競演で、充実した振る舞いコーナーとなった。

今回の「おいしい土呂久・水俣展」で最も感激したのは、土呂久公民館と土呂久婦人会の皆さんが、裏方として協力してくれたことだ。これまで、土呂久公害の催し物では、被害者の会と守る会だけで行うことがほとんどだったが、今回は違った。婦人会会長の佐藤ひとみさんが積極的に声をかけてくれて、振る舞いの準備をしてくれただけでなく、展示を熱心に読んでくれた。その上、翌日は、娘さんを会場に連れてきてくれて、私に「子どもにも分かるように、土呂久公害について話してやってほしい」と、頼んでくれた。積極的な関心を持ってくれているのをひしひしと感じた。
また、土呂久公民館の館長である佐藤盛志さんが、足を怪我して自分で車を運転できないのに、奥さんに乗せてもらって2日間とも会場に来てくれた。何か目玉商品がないとさみしかろうと、高千穂牛の販売も企画してくれて、何とか盛り上げてやろうと思ってくれている気持ちが伝わった。
写真は、振る舞いコーナーで、マリ子さんの末娘、萌さんとふざけている婦人会会長佐藤ひとみさん。後で笑っているのが、今回、土呂久の要として準備した佐藤マリ子さん。

土呂久からの語り部は、佐藤ハツネさん。以前から、原稿を準備して当日に備えた。戦後、再び亜砒焼きが始まろうとする時、土呂久婦人会で当時の村長に「鉱山を始めさせないでほしい」と訴えたが、「多額の鉱産税が村には入る。土呂久のような小さな集落の一つや二つ潰れても仕方がない」と追い返された話は、僻地差別の典型だ。土呂久鉱害もこの思想の上に引き起こされた事件である。写真は、鉱山があったころの体験を話す佐藤ハツネさん。

私も、初めて土呂久を訪ねた1973年7月から5年間くらいの間に撮らせてもらった写真を90枚ほど、テーブルの上に並べさせてもらった。土呂久の人びとに見てもらうための写真展のつもりだった。「昔の写真があるげなね」と、土呂久の住民がわざわざ会場に来てくれた。佐藤浪子さんは、夫の一一さんが現在寝たきりなのに、「夫の元気な時の写真があると聞いたから」と、看病を誰かに頼んで来てくれた。ありがたい。
写真は、土呂久の写真に見入る佐藤浪子さんとハツネさんの長男、佐藤洋さん。

暑い暑い暑い夏の盛りに、遠路来ていただいた水俣の語り部の皆さんはもちろんのこと、ここにお名前は上げませんでしたが、もっともっと多くの方々からご協力をいただきました。ありがとうございました。東京や岡山や福岡など、遠方から来ていただいた方もありました。ありがとうございました。これで今年の夏の私のメインイベントは、終わりました。残すは、仕事だけ。

