経済的な豊かさを求めてばく進していた我が国の矛盾が噴き出し、水俣病、イタイイタイ病、四日市大気汚染などの被害が同時進行で社会問題となり、日本公害列島と言われた1970年代前半。
経済的な豊かさよりも精神的な深さを求める人びとが、インドへ向かい始めた時期だ。私も、そんな社会風潮の影響を受けて、1974年にインドを初めて訪ねた。何よりも驚いたのはインドの人びとの自由さだった。当時はもちろん、カースト制度はあったし貧富の差は、外国から物見遊山でやってきた私にも歴然だ。10歳にも満たない子どもたちが裸足で働いているのは当たり前。しかし、私の目には、誰もが権力者にへつらうことなく自分の意見を主張し、誇りを持って暮らしているように見えた。サドゥと呼ばれる修行僧は、町全体で支え、人びとは宗教者へ敬意を示していた。
サニーサッチーランダと呼ばれるこのサドゥは、学校の用務員室で暮らし、衣服と食事は町の篤志家から提供してもらっていた。彼が街に出て、お茶を飲んでも食事をしても、店は料金を要求することはない。こんなサドゥを訪ねてガンジス川上流の街、ウッタラカシに入ろうとした時、警察に捕まってしまった。ウッタラカシに外国人が入るには、中印国境に近いため国の許可証が必要な時代だったのだ。私はそのことを知らなかった。ひと晩、留置場に止められた後(この晩、南京虫とシラミとノミの総攻撃に遭った)、一週間だけの入域許可が出た。ただし、警察官同行で行動しなければならない条件付きだ。
ガンジス川の岸辺では、親族が集まって火葬が行われていることも何度かあった。聖なる川ガンジスと人びとの暮らしは、密接だ。しかし、街の様子を撮影しようとすると、同行している警察官が撮影を阻止する。警察官によると、私が撮影しようとしている方向に「軍事施設がある」からだと言う。私には、どれが軍事施設か判断できない。具体的に分かったのは、川に架かる橋は軍事施設だ。公共の建物、例えば役場、警察署なども軍事施設だ。その他にも、幾つか撮影を阻止されたが、その理由は私には分からないままだった。
3日目の朝、ホテルに私を迎えに来たのは警察官でなく、ドバールと名乗る真ん中の青年だった。写真は、彼の部屋。彼は、私の監視役の警察官の友人で、警察官に代わって私の監視役になったと言う。彼が、監視役になってからは、ウッタラカシの滞在は快適だった。もう監視役というよりは、積極的なガイドだ。ドバールは、自動車修理工場に勤めるエンジニアなのだが、仕事を休んでまで私のガイド(監視役)をしてくれたのだった。彼の話によると、「ウッタラカシを訪ねてきた初めての日本人」だからと、沢山の友人を紹介してくれ、通路までぎっしりと観客の詰まっている映画館の観客を押しのけて、「初めて来た日本人だから」と、席を準備してくれた。有り難いやら、恐縮するやら。
いや、話はどんどん横道に入ってしまいましたが、ウッタラカシで警察官に撮影を阻止された橋や公共の建物、その他の建物が、普通に人びとが生活している施設なのに、軍事施設だということを思い出したという話なのでした。いつしか、日本でも、橋や公共の建物を撮影できなくなる可能性があるのかも知れない。少なくとも原子力発電所は、そう遠い未来ではなく撮影できなくなるのではと危惧しています。
特定秘密保護法は強引に成立させられましたが、この怒りと虚しさを、次の選挙のエネルギーにするだけでなく、この法律の影響が私たちの暮らしに染みだしてこないよう監視の意識を持ち続けていかなければ、写真家として表現の自由さえも脅かされる。