桜は満開、輝く春の陽光。社会の新人たちが、希望を胸にさっそうと風を切って歩く街。そんな4月1日、私に届いたのは、キャノンギャラリーに申し込んでいた写真展開催の落選の結果だった。
2006年から撮り始めた近年の集大成のつもりだった。このブログでも、度々お伝えしてきた「リトルヘブン」の写真を写真展用に再構成した50枚だ。この7年余、ほぼリトルヘブンに集中してきたと言っても良い。日本のどこにでもある風景、どこにでも居る人々。そんな風景や人々の中にこそ、本質的な魅力が潜んでいる。そんなコンセプトの基、全国の里を訪ね歩いた。
キャノンギャラリーから送り返されてきた写真を見たが、私には、私の思いを伝えられていると、改めて思う。と、いうことは、今の私の写真は、根本的な間違いをしでかしているのかも知れない。
66歳という年齢を考えると、これから仕切り直すのは、気の遠くなるようなエネルギーだ。
「松島や ああ松島や 松島や」という有名な句があるが、3月末、宮城県松島の名勝を形作る島の一つ浦戸桂島へ行っていた。今期最後のノリの刈り取り船に乗せてもらった朝。海と空の境も曖昧な乳白色の宇宙へ、船は全速力で突入して行った。松のシルエットが美しい小島が、目の前に瞬間現れて、あっという間に後方に消え去る。
その小型船に揺さぶられながら、私の頭に、ある考えがよぎった。
最近の私の写真は、分かってもらおうと、し過ぎているのではないか。写真家が、世界を見る思考は、そもそも普遍的な人々の思考とは違う筈だ。違うからこそ、写真家が存在する理由がある筈なのに、分かってもらおうとして、普遍的な人々が世界を見るように写真家が見たのでは、自己否定への道だ。忘れかけていた自分自身の道に帰ろう。
分かってもらいたいという欲求を内在させている不安は、以前から抱えていた。キャノンギャラリーの写真展に落選したのは、分かりやすさを求め過ぎた結果だったのかも知れない。
暗中模索の66歳。どこまで続く暗闇か。本当に、これから先、光りはあるのか。
ご無沙汰してます。
リトルヘブン、とてもいいです。3.11で、私はかけがえのない日本の風土の一部が失われて2度と見ることができなくなった、あるべきはずの山河は突然なくなってしまうこともあるのだと認識させられました。私の父の故郷東北の一部は、またいつでも見に来ることができるからと、写真も撮ることなく…。リトルヘブンは、自然と、そこに暮らす人々の営々と営んできた暮らしをしっかりと写真に撮っている貴重なお仕事と思います。他の写真展に出してみてはいかがでしょう?
誰もが、普段の忙しい暮らしの中で忘れがちになっている淡々とした日常に潜む豊かさを意識してもらえればと、願って取材を続けていますが、写真も平凡になっていた(ならざるを得なかった?)という反省があります。どうしたら良いのかは、まだ、私には分かりませんけど、これを機に、取材現場で考えながら修正し、次に挑もうと思っています。