52枚あります。全ての写真は、リコーカプリオR5で撮影。
途中で飽きたら、すみません。
コルカタでカミさんと合流して、寝台列車でバラナシへ。
バラナシでは一週間余、呑気な時間を過ごし、再び、寝台列車でアグラへ。
アグラは、3日間で、夜行特急でニューデリーへ。
そう、ま、言ってみればお決まりのインド旅行コースをお楽しみ下さい。
では、始まり始まり。
コルカタの空港から市街地へ向かうタクシーの中から撮影。インドでは、サイドミラーがないのは当たり前。あっても、恐らくすぐに接触でもぎ取られてしまうからだろう。
コルカタには一泊しただけ。バラナシ行きの寝台特急のチケットを買おうとしたが、エアコン付きの車両は、満席。セカンドクラスのウイズアウト エアコンだ。
エアコンなくても問題ないと、出発する直前まで気にしていなかったのだが、列車が出発するプラットホームへ行って、ちょっと焦った。セカンドクラスというのは、夜、寝台を使うまではフリー座席になっているようで、私たちの席には荷物を抱えた人々が折り重なるように座っている。カミさんは、パニック状態。
ともかくチケットの席に座っている人々をぎゅうぎゅうに脇に詰めて、強引に席を確保した。カミさんを座らせておいて、私は、もう一度プラットホームへ降りて、ファーストクラスの車掌を捜す。ようやく見つけ出して、ファーストクラスに空きはないかと交渉すると、車掌は落ち着き払って「お前の持っているチケットを見せろ」と、言う。ゆっくりと私のチケットを眺めていて、何も言わずに何やらメモを渡した。
ファーストクラスのコーチと座席番号が書いてある。「よっしゃ」と、そのメモを引ったくるようにして受け取ると、セカンドクラスの席に座っているカミさんのところへとって返した。
カミさんは、押し寄せてくるインド人に追い込まれて、窓際に貼り付くようにして、リックサックを膝の上に置いたまま青い顔をしていた。
「おい、ファーストクラスへ移動するぞ」「え、チケット取れたん。どうなるかと思った」と、ほっとしている。
そんな訳で、危機一髪。ファーストクラスのエアコン付きで、快適な寝台列車の朝を迎えた。「えーチャイ、えーチャイ」と、チャイ売りがやって来る。おめざのチャイだ。
窓の外は、麦秋。どこまでも続く麦畑が収穫の時期を迎えていた。
カミさんは、何やら日記風のメモを書いている。どこまでも続く黄金色の麦畑にいたく感動の様子だ。「お父さんやお母さんに、この風景を見せてやりたいね」などと、言っている。夕べのパニックから逃れてからは、急に余裕が出来てきたようだ。
朝食に、果物を。ブドウとパパイヤ、それにサモサとチャイ。
ファーストクラスのトイレ。
バラナシに到着して、コルカタから電話で予約しておいたアルカホテルのピックアップを受ける。オートリキシャで約15分、ガンジス川沿いのホテルへ。バラナシでも交通事情は同じ。車間距離5センチ、「あ、ぶつかった」と思うような際際を交わしていくのが、得意げだ。
もちろん、サイドミラーは外側には無くて、内側でヒゲを整えるのに活用されている。
カミさんはホテルに着くなり、ガイドブックを見ながらどこへやら電話している。バラナシに知り合いでもいるのかな。「ね、出かける準備して。今から10分後にシルク屋さんが迎えに来るて」「おい、おい、今着いたばかりだぜ」そんなボヤキは聞く耳持たず。今日、注文しなければバラナシに居る間にシルクのスーツが出来ないかも知れないと、焦っている。
シルク屋は、しっかり10分後に、アルカホテルのフロントに飛び込んで来た。
それから、大騒動して約2時間。ようやく布地を選び、スーツのデザインを選び、仕立て屋さんが寸法を測りにやってきた。上着とスカートは、別々の仕立て屋さんだ。
スカートの仕立て屋さん、カミさんのウエストの寸法を測っては首を傾げて、計り直している。こんな寸法の人間が世の中に存在するのが不思議というような顔だ。
奧の方で、呆れ顔のシルク屋の息子の顔も見て下さい。
翌朝、5時30分。予約していたボートの船頭さんがホテルに迎えに来てくれて、日の出前のガンジス川へ。朝の冷気と厳粛なる雰囲気が、インドに居ると強く思わせる。少し明るくなると、何隻ものボートが川面に浮かんでいるのが見えてきた。ボートはほとんど手こぎだ。静かにボートが行き交う。
対岸から微かに太陽が顔を出した。ヒンドゥ教徒ではないが、何やら神妙な気持ちになって、ボートまで売りに来た花と灯りをカンガ(インドの人々は、親しみを込めてガンジス川をガンガと愛称で呼ぶ)へ捧げるカミさん。
私たちが乗っているボートのすぐ脇を動物の死骸が流れていく。牛のようだ。
太陽が昇って、ガートは一層賑やかになった。人々は、思い思いのやり方で聖なる川ガンガへ祈りを捧げる。
ガンジス川のガートには、動物が人間と同じように集まってくる。聖なる動物である牛はもちろんだが、山羊、猿、犬。餌の取り合いをして、派手な立ち回りを演じることもあるが、概ね呑気そうに日陰で寝ころんで眠っている。
私たちが止まったアルカホテルのテラス。朝と夜は、このテラスのテーブルでガンガを眺めながらベジタリアンの食事。この写真を撮影したのは、日中なので、テラスには誰も出ていない。
メインロードから曲がりくねった露地を抜けて抜けて、ようやくアルカホテルに到着するのだが、その露地の脇のレストランのコックさん。
ホテル入り口前のヒンドゥの祠で、子どものお祭りをしていた。集まっていた子どもたちにカメラを向けると、吾先にカメラの前に集まってくる。
ガンガ近くの郵便局へ絵はがきを出しに行った。窓口の奧の方に、埃を被った書類が山積になっていて、カミさんが出した絵はがきを受け取るとその上にポンと置いた。「こりゃ、日本で配達になるのは、2世紀ほど後になると思うよ」と、言ってしまいそうな郵便局だった。
この時出した絵はがきは、およそ10日間後に日本で配達されていました。
念のため。
どこへ行くのにも、オートリキシャ。横から前から、バイクも車も突っ込んでくる。
バラナシからアグラへ行く寝台列車のチケットを買うために、駅へ行く時に乗ったオートリキシャは、ちょっと行ってはすぐにエンジンの冷却水が詰まって、パイプを外して付ける作業を繰り返しながら、何とか駅まで辿り着いた。
バラナシ駅のチケット売り場に吊り下げられていたカレンダー。縦の行なのに、驚いた。
考えたら、こんなのもあって不思議じゃないが、日本では見たことがない。日本人が均一化されているという現実が、こんなところにも表れているのか。
駅からの帰りに乗せてもらったリキシャドライバーの若者。笑顔が清々しかった。途中で、水を飲みたいと一休みした時。
毎日、ガートを訪ねた。その時ごとにドラマがあり、人々の真摯な祈りに目を奪われる。
スクールリヤカーで下校する子供たち。
昼下がり、微塵の警戒心も見せず昼寝する犬たち。確かに、動物たちに構う人間は見かけなかった。共生共存を絵に描いたような世界だ。
ある早朝、リキシャでヒンドゥのお寺巡りに出かけた。街は、まだ店が活動する前。道ばたで、男たちは新聞を読みふけっている。インド人の男は、新聞を良く読む。時事、政治を話題にするのが好きだ。
お寺の名前を忘れたが、バラナシでは有名なヒンドゥ寺院の一角。お参りにきた人々が捧げる線香の煙と花が絶えない。本当は撮影禁止だったようで、後で注意された。
カミさんは、シルク屋だけでは飽きたらず、今度はパンジャビだと、露地の奧の店で試着を繰り返す。店の若旦那は呆れて、携帯電話で誰かと話しを始めた。
私も呆れて、店の奥のマットの上で横になっていたら、日本人の若いカップルが顔を覗かせた。「どうぞ、見るだけでも構いませんよ」と言ってやったら、「日本語がお上手ですね」と、驚いて帰った。
買い物もした。お寺も巡った。ガートも毎日行く。たまにはホテルの部屋で、ゆっくり日記を付けたり、読書をしたり。
この部屋は、アルカホテルの中では最上級の部屋。「ベリービッグルーム、ウイズエアコン、オブコース ユーキャンユース ホットシャワー、アンド ウイズ ビッグバルコニー、アンド ウイズ ワンピクチャー、どうだ」と、フロントのオッサンが薦めてくれた部屋だ。二人で950ルピー(2850円)
ガートへ行くと、男の子がアイスを舐めていた。
少年が、磁石に紐を付けて、ガンガへ投げ込んでは引っ張り上げている。
「何しているんだ」と聞くと、面倒くさそうに「コイン、コイン」と言って場所を移動した。
生まれて間もない赤ん坊が、母親とその両親らしき二人から、清めの儀式を受けていた。日本で言うお宮参りみたいな儀式なのだろう。ガンガの聖水で溶かした泥絵の具で化粧をし、何度もガンガの聖水を頭に垂らされる。一連の儀式が終わると最後に頭からずぼっと、ガンジス川に浸けられた。それまでは呑気そうに眠っていた赤ん坊が、驚いて大声で泣き始める。
そんな、人生のドラマがバラナシのガートのあちこちで展開されている。
遠くの地方から聖地バラナシを訪ねてきたと思われる団体は、ボートに乗ってガンガの中洲へ渡る。中洲で静かにガンガへ祈りを捧げ、聖水をビンに入れて地元へのお土産にするのだ。
ガートでは、祈りを捧げる者はもちろんだが、洗濯する者、体を洗う者。思い思いのスタイルでガンガと親しむ。全てを許し、全てを受け入れる。それがガンガ。
ガートからメインロードを通ってホテルへ帰る。アスファルトの道路は、あまりの暑さに溶けて轍の跡はもちろん、人々の生活の一端を溶かし込んでしまっている。
アルカホテルのベランダで猿が二匹、隙あらば何かくすねてやろうと、待ち構えている。
バラナシ最後の日、駅へ向かうオートリキシャに見知らぬ男が乗りこんできた。着ている服から判断するに警察官らしい。何か、あったのかと身構えたが、我々には頓着なし。ドライバーとえらく親しげに笑顔で何やら話している。駅へ行く途中のカーブでスピードが遅くなった時、ひょいと降りてすたすたとどこかへ消えた。
どうも、警察官は、客が乗っているオートリキシャに、ただ乗りすることが許されているようだ。
さて、次は、アグラ。
35年前、私が初めてインドを訪ねた時にアグラで泊まったアグラホテルが印象的で、今回の旅で機会があれば、もう一度アグラホテルに泊まりたいと願っていた。
駅で話しかけてきたオートリキシャのドライバーに聞くと、アグラホテルは今もあるが止めた方が良いと言う。それでも、ともかくアグラホテルへ行ってくれと、強引に訪ねた。
35年前とまったく同じ様子で、アグラホテルはあった。まったく同じで存在していることに驚いた。35年前は、私が泊まった何処のホテルよりも高級ホテルで、三食とモーニングティ、アフタヌーンティが付いて確か32US$だったように覚えている。
ほとんど手入れもされず35年経ったホテルは荒れていた。二人で400ルピー(1200円)は安いが、ちょっと躊躇がある。
トイレもまったく35年前のとおりだった。結局、食事が出来ないと言われて、泊まるのを諦めた。
オートリキシャのドライバーの勧めで泊まったツーリストバンガローでの朝食。
アグラは、観光地巡り。夕方、ツーリストバンガローへ帰ろうとして、アグラ城の前へ出ると象が人を乗せて歩いて来た。動物園で見る象は、そう珍しくはないが、道路を人を乗せて歩いてくると感動ものだ。近くで見ると、でかいぞう。
アグラからニューデリーへ向かう特急列車で出た弁当。料金の中に組み込まれていて、ファーストクラスの全ての乗客に提供される。ベジタリアンかノンベジタリアンかを問われる。私とカミさんは、ベジタリアン弁当を食べた。
インド旅行も残すところニューデリーの2日間。ホテルのシャワールームで、毎夕の日課だった洗濯をするカミさん。もちろん、私は私の洗濯を自分でする。
毎日の洗濯のお陰で、およそ3週間のインド旅行を小さなリックサック一つで過ごすことができたのだ。
ニューデリーで泊まったYMCA(治安は良い宿泊施設だが、水は最悪だった。塩味がして、鉄分の匂いがする。おまけにここのホテルだけで下痢)の近くにあったコーヒーハウス。セルフサービスのコーヒーハウスで、軽食もあり、昼食はここで済ますことができた。閑のある高齢者のサロンのようになっていて、昔の職場の同僚らしき数人が集まってあちこちのテーブルで談笑していた。
心地よい空間だった。
私の住む宮崎にも、こんな開放的なサロンがあると良いのにと、思った。
ニューデリーも観光地巡り。どこのモスクか忘れたが、総大理石のモスク。数世紀にわたって人々が祈りを捧げた痕跡として、大理石が凹んでいるのが分かる。
市内バスの窓に見えた子どもの目が印象的だった。彼は、このインドでどんな人生を送るのだろうか。
インド旅行最後の日。インド独立の父と言われるマハトマ・ガンディーの墓を訪ねた。特にガンディーの思想を深く理解している訳ではないが、非暴力を貫いたガンディーには親しみを感じていたからだ。没後60年にもなるのに、多くの人びとが行列を作り、墓の前で跪いて祈りを捧げていた。
プライベイトなインドの旅に長い時間お付き合い下さり、ありがとうございました。
終わり。